集合住宅のことを考える。
数年前まで住んでいた海の目の前の古いマンションは、インチキ「コルビュジェのユニテ」のような雰囲気があり、地上レベルには狭く浅いプール、エントランスにはゆったりとしたソファスペース、屋上は開放されていて「娯楽室」という名のマンション住民の為のペントハウスがあった。それらのいわゆる共有スペースは、面積的にはかなり豊かなものであった。
では、そこで、さぞかし豊かな住民同士のコミュニケーションがあっただろうと思われようが、実は、そうでもない。結局は普通のマンションと同じような、挨拶程度の関係で終わるのである。やはり、ただ単に、そのようなスペース、ハードがあればいいというものではないらしい。ハードを有効に活用できるような仕組み、ソフトがなければ何も生み出されないのだということを、私は身を持って体験した。
今、プライバシー、セキュリティーとさんざん「守り」を固めた結果、「孤立」という弱さと危険が浮き彫りになっている。ニュースに流れる孤独死という問題、そして3・11の津波で逃げ遅れた原因の中にも「連携不足」が大なり小なりあると思われる。
完全に開き切るわけにはいかないが、閉じてばかりはいられない。そのさじ加減、バランスはどこにあるのか。守り一辺倒の状態を崩した、攻守バランスのとれた住まい方とはどのようなものか。硬直した家とまちの関係を緩める手段を考えよう。
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