「ヒロ・ヤマガタ」再考

 

「ヒロ・ヤマガタ」こと山形博導は、いわゆる芸術関係者からは、あまり真剣に相手にされないことが多い。

 

80年代、90年代前半にヤマガタのシルクスクリーンはバカ売れした。ミニスカートのお姉さんが渋谷や表参道などの街角の即席ギャラリーの前に立ち、「アートをローンで買いませんか?」と、高揚した社会人素人をあおるような商法でヒロ・ヤマガタの作品はよく売られていた。その立ち位置は、現在でいうところのクリスチャン・ラッセンに似ている。つまり商業ルートに乗りすぎて、いわゆる「芸術」扱いされていないものといえる。

 

ヤマガタの描く題材は、パリなどの欧米の街並に、たくさんの人々が繰り出して、なにやら盛り上がっているというものが多い。空には花火があがったり、気球が飛んだりするし、地上では車が楽しげにクラクションをならしている。群衆の中にいくつものドラマが埋め込まれ、観者の視線はそれらの発見をしながら画面全体をくまなく移動してゆく。濁りなき発色の良い色彩が、画面をキラキラと組み立ててゆく。

 

バブルがらみの80年代。軽薄で中身がないと敬遠、軽蔑され、反省?される80年代。ヤマガタの絵は、その空気感をはらんでいることは間違いない。そして、今現在、ヤマガタが話題にのぼることは、ほとんどない。いわゆる「美術史」に深く参加しているとは言いがたく、現在は「バブルに消費された作品」としての印象が強いのではないだろうか。ヤマガタ本人のインタビューをどこかのサイトが見つけたが、当時を振り返って、「日本で紹介されている作品の多くは、米国の悪徳画商にだまされ、押しつけられてかいた絵だ」と語り、現在の公式hpでは、当時の作風とは全く違う、モノトーンの抽象絵画をみることができる。

 

「バブルに消費」され、「美術史から無視」されたヤマガタ。

しかし、「バブル」は、所詮、「経済」であり、「美術史」は、所詮、「欧米のものさし」である。

 

いま、ヤマガタの作品の「内容」そのものを味わうことができないか。再考できないか。

あの「底抜けに明るく」「能天気」なパワーは、なんらかの力をもっていないか。

 

地震だ、津波だ、不況だ、環境問題だ、グローバリズムの飽和だと、ちゃぶ台がひっくりかえりそうなご時世において、あの「バカ明るさ」の力を再考してみたいと思う。

 

< 2011年11月3日 >